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『御霊屋』
最終改訂 2008.00.00
【 第一話 吉弥という男 01 】
「っくしょぃっ・・・っあー」

 少々大げさなくしゃみと、その後の溜息が、うら寂しい夜の静けさの中に響いた。
 くしゃみを零した男は、自身の声に驚いて慌てたように口を閉じ、潜んでいた藪の中からほんの少しだけ頭を出して周りを伺うなり、 ほっと一息ついては身を引っ込めた。

「ちきしょうめっ、」

 低く唸ってから、白地に「なんだかしらん」と漢字を当てた文字の羅列というふざけた柄の着物の前を掻き締めた。 時期は夏。にも拘らず、男の体は寒さに震えているのだ。

「ちきしょう・・・・・・寒いったらねぇぜ、気味の悪ぃ」

 男の手の中には、一振りの刀があった。
 男は、それをまるで刀自身が意思を持って逃げ出すのを心配しているかのように、大仰な仕草で抱きつくように刀を掴んでいる。

「ったく、おれも妙な旦那に捕まったもんだ」

 愚痴を零して、そっと藪の隙間から向こうを覗き見る。視線の向こうには、古びた屋敷。お武家の屋敷だろうに、 立派であっただろう屋敷は見る影も無く寂れて崩れそうな按配だった。

 そもそも、この震えている男は、この屋敷の荒れ庭の藪の中に潜んでいるのだ。 その藪の中から覗くは、屋敷のたった一つ開け放たれた雨戸。ぽっかりと開いたそこは、ただ暗闇があるばかりで、 荒れているだろう屋敷の中はようとして知れない。まるで四角い暗闇という生き物が視界を塞いでいるようだ。

 その暗闇という化け物が、どろどろと蠢いて今にも男に襲いかかってくる・・・・・・そんな想像を無理やり断ち切って、 男はごくりと唾を飲み込んだ。

「旦那ァ・・・・・・早くしてくだせぇよォ、」

 誰も聞くことのない弱音を、掠れ声で吐き出す。


 かちゃん。


「ひぇっ・・・・・・!」

 まるで男の弱音に反応したかのように、男の手の中の刀が涼やかな鍔鳴りを発した。

 寂しげで不気味なその音に、男は一瞬だけ本気でその刀を放り出しかけ・・・・・・。 しかし直ぐに、正気を取り戻し慌てて放し掛けた刀を嫌々ながらに掻き抱く。

 刀は、先ほどからこうして鍔鳴りを発する。独りでにである。なにも、この男が刀を引っ掴んで振るっているわけではない。 そう、勝手に刀自身が鳴くのだ。

「何だって・・・・・・ちくしょうめっ、」

 小声で文句は吐いたが、いかんせん迫力に欠けていた。すいと覗いた男の腕には、見事に鳥肌が立っている。


 かちゃ、かちゃ、かちゃん。


「ひっ・・・・・・!」

 またしても、男の声に呼応するように鍔鳴りがした。 しかし、今度は男も少しは覚悟を決めたようで、刀を放り投げようとはしなかった。

 この刀、何と言うこともないごく普通の・・・いや、ちょっとした縁でお侍と顔を合わす機会の多い男からしてみれば、 大分古びたおんぼろの鈍らそうな刀だ。いかにも「意匠を凝らした」という言葉が似合わない、無粋で不細工な作りの刀だ。 柄がぼろぼろなら、鍔も鞘も同様で、青緑色の錆なのかカビなのか埃の塊なのか古そうな汚れがついている。


 この様子じゃ、中の方もたかが知れてらぁ。


 男はそんな気持ちで、不気味な刀を見下ろした。
 それでも無下にこの刀をその辺へうっちゃることのできない理由がある。その理由こそが、 この男の鳥肌を助長させていると言っても良い。

「・・・・・・気味が悪ぃやな」

 男は、すっとその部分へ視線を落とした。
 刀には封がしてあるのだ。封とは言っても、脆い半紙を短冊のように切った紙を一枚、鞘から鍔にかけて貼っただけの封だ。 誰でも、そう、この男にだって軽く刀を鞘から抜けば封は破れるだろう。

 しかし、その封の半紙には何やら呪文めいた文字が連なっている。無学な男には、それが何であるか読めもしなかったが、 その文字はいかにも「経文」と言ったふうで、男は安易に「御札」なるものを思い浮かべた。つまりは、その封は「御札」で、 札が貼られてるというからには、何か「よくないもの」を封印しているに違いないのだ。 そんなことは、どんなに小さなガキにだって分かる。

 だから、男は、その刀を預けられた持ち主の言葉に従って、それを捨てもせず、ましてや盗もうともせずに、 こうして頑張っているわけだ。

「ちきしょうめ・・・・・・、」

 何とはなしに、声を張り上げる。そうでもしなければ、己の抱える恐怖で身が潰されてしまいそうな気になる。 男の腕と言わず脛と言わず、あちこちが蚊に食われて痒いことしきりだったが、男はこの藪から出ることはしなかった。

 荒れた庭には、どっしりとした石灯籠が幅を利かせ、いかにもその裏から大きな影が出てきそうで恐ろしい。 それがこの世のものであるならばまだしも、男の想像では夜の生き物かあの世の生き物だった。 いい年をした男にそう思わせるほど、この荒れた庭には薄気味悪さが漂っているのだ。


 たんっ。


「!」

 男が幾度目かの気休めの言葉を発しようかとした瞬間、屋敷の奥の方で乾いた音が微かに響いた。

 その音を捉えた瞬間、男は正にその瞬間のまま体を凍らせた。「ちきしょうめ」と呟こうとした「ち」の口の形のまま、 腹に息を溜め込んだまま、そのままでぴたりと動きが止まった。

 男は、ゆっくりと心の中で言い聞かせながら、普通に息をすることを考えた。


 息を吸え!

 息を吸うんだ!


「・・・・・・、」

 馬鹿らしくもそう言い聞かせてある程度正気に戻ると、ゆっくりと静かに藪の中に腕を突っ込んで穴を開け、 一枚だけ剥がされた雨戸の暗闇をじっと睨んだ。暗闇の中には何も変化が無い。

「旦那ァ」

 まるでツケを頼む時のような情けない声で、男は心もとなく呟いた。


 かちゃかちゃかちゃ・・・・・・かちゃんっ。


「ひっ!」

 少し伸び上がって屋敷の方を伺っていた男は、出し抜けにまたしても鍔鳴りがして腰を抜かしかけた。 落としそうになった刀を慌てて抱えなおし、まじまじと不気味な刀を見下ろす。

「冗談じゃねぇや、何だってこんな面倒に・・・・・・、」

 男はそう嘆いたが、しかし、祟られても困る、と、刀を此処に捨てて逃げる度胸もないのだ。

 男は、名を真理字といった。
 生まれは出羽の田舎で、両親と兄二人は今も田舎で苦しい生活を送っているだろう。

 末っ子の真理字は畑と鍬との睨めっこに厭いて、先立つものも碌に持たず、 ただ「一旗上げてやる」という勢いだけで江戸へとやってきたのだ。 それが数年前、今じゃ来た頃の勢いも萎んで、無宿の芝居者だ。 その役者とてたかが知れており、どちらかというと「芝居者くずれ」で、 細々とした「御用聞き」の方が仕事になっていたりする按配だ。

 つまり、何をするにも落ち着きがなく、結局は誰かに使われるような性分なのだと最近では自分でも諦めている。 そんな気弱な男なのだ。


 タンっ。


「!」

 再びの物音は、さっきよりもはっきりと聞こえた。
 どこか高い位置から、畳の上へ裸足で飛び降りたような音だ。 しかし、その音一回きりで、そのあとに畳を歩く音は聞こえてこない。

「・・・・・・旦那ァ、吉弥の旦那ァ」

 掠れた、殆ど空気といってもよい声で、真理字は小声で叫んでみた。

 返ってくるのは暗闇ばかり。
 畳一条ほどの、雨戸を開けた暗闇はどこまでも奥へと続いているように見えた。 あれは、きっと地獄の向こうまで繋がっているに違いない、そう思わせるには十分の暗闇だ。

「旦那ァ・・・・・・っ!」


 タンっ。


 耐え切れずにまたしても声を上げた真理字の声の後から、さきほどと同じような音がはっきりと屋敷の奥から聞こえてきた。 真理字は、反射的にじっと屋敷の暗闇の奥を睨んだ。


 カタカタカタカタ・・・・・・。


「! な、なんだァ、こりゃァ・・・・・・!」

 始めは真理字自身が臆病風に吹かれて震えているのかと思ったが、ふと視線を下げると、腕の中で刀が身震いをしていたのだ。 さっきの鍔鳴りとは違って、こまめに、まるで貧乏揺すりでもしているかのように震えている。


 ミシ。


「!」

 畳を踏みしめる僅かな音を、真理字は確かに耳で拾って顔を上げた。
 刀から視線を上げて屋敷の奥を睨んだが、やっぱりただの暗闇が続いているだけだ。 しかし、手元の刀は何かの前触れのように震え続けている。


 みし、みし、ミシミシっ。


「ひぃ・・・・・・だ、旦那ァっ!」


 畳を何者かが踏みしめる音は、確実にこちらへと向かっている。それを感じ取って、真理字は大声を張り上げた。


 ミシミシミシミシミシミシミシ・・・・・・。


 畳を踏みしめる足音が今度は容赦なく近づき、 さっきまでは駆け足ほどだったのが今じゃ本気で走ってくるような按配になってきた。

「だ、旦那っ! 旦那でしょう!? 吉弥の旦那なんだろう!?」

 近づいてくる足音に、半ば泣き声で募る真理字。


 ミシミシミシミシミシミシミシ・・・・・・。


 確かに畳みの上をこちらにむかって走ってくるような音がずっと続いている。
 しかし、この屋敷がいかにお武家の屋敷といえど、そんなにずっと真っ直ぐ走ってくるほど広くは無いはずだ。 それにも拘らず、足音は途切れもせずに段々と近くなってくるのだ。

 その矛盾に気付いた瞬間、真理字の背中に冷たいものがつぅっと流れた。

「そ、そんなァ・・・・・・な、なんでだよぅ・・・・・・!!」

 そこでようやっと逃げようと心に決めたのだが、その段になって情けないことに真理字は腰を抜かしていた。 どう頑張っても、体は他人のもののように言うことを利いてはくれない。焦った真理字は、 何度も屋敷の方と自分の体とに視線を向けたが、体のほうはどうにもこうにもならない。

 鍔鳴りのする不気味な刀ではあれど、無いよりはあった方が心強いのか、 真理字は仕方なくその刀を握り締めて暗闇の方をじっと睨み据えた。


 旦那ァ、旦那ァ、旦那ァ・・・・・・。


 心の中で幾度と無く繰り返す。

 真理字は、物心付くか付かないかの頃から鍬を持たされ、 同い年の京の子供がちやほやとされている間もずっと不公平にもボロを着て畑と睨めっこだった。 そんなだから、疾うに神や仏の類は信じていやしなかった。

 もしも仏様がいるのなら、碌な食べ物も、薬を買う金もなく、 何もしてやれずに姉が流行り病で死んでいく筈はなかったのだから。極悪人ならともかく、真理字の姉は文句一つ言わずに、 綺麗な着物一つ持たずに、親のため兄弟のためと身を削って働いていたのだ。その姉が救われないんじゃ、 神も仏もあったもんじゃないわけだ。

 だからこそ寄る辺ない真理字は、常に臆病だとも言える。

「!」


 ミシミシミシミシミシミシミシ・・・・・・ッ。


 畳の上を駆ける音が一段と早く、そして近くに聞こえてきた。


 ごくり。


 自分の唾を飲み込む音が、自棄に大きく真理字には聞こえる。

 そして、ふと足音が途切れた。
 その瞬間 ── 。



 ダンッッッ!!



「わぁァ!!」

 板張りの上に石灯籠でも落ちたかのような大きな音に、真理字は思わず目を瞑った。
 その大きな音は、足音に続くようにして、間違いなく屋敷から出るか出ないかのところで聞こえたのだ。 そこに化け物がいたとておかしくは無い。だから、真理字は硬く目を閉じた。

 暫しの無音。


 タンッ。


 小気味良い、板の間の上に飛び降りたかのような音。


 タンタン、タッ・・・・・・。



「真理字、刀だ! 刀を寄越せ!」



 小気味良い音が途切れるなり、けたたましく人間の声が闇夜を割いた。

「だ、旦那ァ!!」

 真理字は、その声を聞いた途端に目を開けた。
 見れば、辰砂色の派手な着物の男が丁度雨戸から出て縁側の板の上を踏み切り、 荒れ庭へと飛び降りてくるところだった。

 その男こそが、真理字の待っていた吉弥だった。
 屋敷の中でどう暴れていたのか、吉弥の着物は乱れに乱れて、中の下帯が見えるほどだ。 その吉弥が、真っ直ぐ藪の方へと走ってくる。

「馬鹿野郎! 腰を抜かすンなら後にしろ! 抜かしたくとも腰がねぇことになる! 刀を寄越せ!!」

 普段、酒を飲み歩いてはへべれけになっている吉弥しか見たことの無い真理字は、その怒声にただただ驚いて、 もう無意識にその不気味な刀を放り投げていた。無論、吉弥に向かってだ。


 カチャン。


 刀は涼やかな音を立てて、吉弥の手の中に納まった。
 しかしそれが真理字の見間違いでなければ、刀の方がまるで意思を持って吉弥の手の中へ飛び込んだように見えた。 真理字の震えた手では、まともに放り投げられなかったのだから。

「お前ぇは、藪ン中で目ぇ瞑っておけ」

 吉弥は刀を受け取るなり、ぐるりと向きを変え、屋敷へと向き直って足を止めた。 真理字はそんな吉弥の大して頼もしくも無い優男の背中を見やってから、 大人しく言うことを利いて藪の中で小さくなって目を瞑った。


 カチャン。


 暗闇の中で、その音だけが真理字の耳に届いた。
 吉弥があの封を解いて、刀を抜いた音に他ならなかった。

 封を解いたということは、封じ込められていた「良からぬもの」が開放されたということだ。 真理字は、ぞくぞくっと背に悪寒が走るのを感じ取った。


 何かがいる。
 何か、この世のものではないものが。


 真理字は、自分の背中の向こうを思って漠然とそう感じた。


 何かがいるのだ。


 それが、屋敷から出てきたものなのか、それとも吉弥の刀から解き放たれたものなのかは分からないが。

「・・・・・・怨、」

 背中では吉弥が何事かぶつぶつと呟いた末に、大声で怒鳴った。
 それが何の呪いなのかは真理字には検討も付かなかったが、 最後の「怨、」という怒鳴り声には馴染みがあった。憑き物払いやなんかはよく聞く言葉だ。 だから尚更、真理字は肩を丸めて小さくなり、硬く目を閉じた。

 同時に、またしても鳥肌が全身に立ち、知らぬ化け物がそこにいる証拠だとでも言うかのように、全身が総毛立つ。

 瞬間。

 びゅっと風を切る鋭い音とともに、目を閉じていても分かるほどの光を辺りに感じた。 どこから吹く風なのか、弱いのか強いのか一瞬だったのか長い間だったのか、それさえも感じさせずに吹き去った。

「・・・・・・、」

 無音。
 ・・・・・・いや、音はする。

 いや、音が戻ってきたのだ。
 当たり前の夜風に伸び放題の雑草が揺れる音、蚊が飛ぶ厭な音、自身の衣擦れ、 どこかに溜まっていた雨水がぽたぽたと洩れる音。

 音が、今までの音が戻ってきた。


 ジリ。


 地面を踏みしめる音に我に返り、真理字は恐々と目を開けてみた。
 眼前は、当たり前ながら藪である。一気に体中の痒みが広がっていく。

「・・・・・・だ、旦那ァ?」

 ゆっくりとへっぴり腰のまま藪から顔を出して掠れ声をかけると、 再び地面を踏みしめる音が微かにして、真理字は確かに吉弥と目を合わせた。

「・・・・・・終わった」

 吉弥は、真理字を見るなり、大層骨が折れたとでも言いたげに呟く。 その顔には微かな疲労は浮かんでいたものの、いつもの剣呑とした様子の少々不気味な呆けた顔の吉弥がいた。

「お、終わったって・・・・・・旦那? どういうこってぇぃ?」

 がくがくと笑う膝をどうにかこうにか立たせて、吉弥に言い募る。 が、吉弥は煩い蝿を追い払うがごとく、面倒そうな顔で「終わったモンは終わったンだよ、」と言ったきり背を向けて歩き出した。

「・・・・・・あ、旦那!」

 真理字は、慌ててその吉弥の背中を追いかけた。





・・・・・・こんな感じでどうぞ。
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